作業療法士がコミュニティづくりに絡むといいかもしれない理由

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久しぶりの更新です。

作業療法士が街づくりやコミュニティづくりに絡んでいくことが増えていますね。

なぜ、作業療法士が? と思う方も多いかもしれません。でも僕は、ものすごくOTの視点とコミュニティ・街づくりの視点が合致するように思っています。

作業療法士がコミュニティづくりに絡むといいかもしれない理由

ヴァイツゼッカーという人

大学時代、現象学を学んでいた関係で、ヴァイツゼッカーという人の本を読みました。

ヴァイツゼッカー

こんな人。有名な本は「ゲシュタルト・クライシス」。木村敏という人がわかりやすく解説していますね。

この人の人間観がOccupational Therapyの人間観に近い気がするんです。

相即(コヘレンツ)ということ

「主体的に生きよ」とか「主体性を持ちなさい」とか言いますが、主体とは何か。

「AとはAと非Aとの境界である」

これを言っているんです。ってわかりませんよね。論理的に矛盾してるし。

有機体としての人がいる。有機体とその外には明確な境界がある。境界があるから個人がはっきり見えるわけです。

その境界では絶えず外界とやり取りがある。やり取りを少し離れて見ると境界線の様に見える。

離れると見えてくる境界線。思いっきり近づいてみると線という「モノ」があるわけでなく、出し入れのような「動き」があるんですね。

ヒトと外界の境界を思いっきりズームした部分。

赤いのは細胞です。外界と連絡して物質を出し入れしてる。

どこまでヒトの外でどこからヒトの中? う~んどこまででしょう?

さっきの図。

人と外界とのやり取り。

さっきは物質レベルで見ていたけど、そうじゃなくて社会・文化的なレベルで見るとどう見えるか。

何かに対して何かをやるということが境界上で生じている。というより、そうすることが境界線のようなもになるんです。

その境界線のようなものが成立すると主体になれます。

例えば、家事作業ができると主体的な主婦になる。それができなくなると、主婦としての主体を失う。

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また、人間として自分の歴史に関わることができるようになると主体的に生きることができるようになる。

これってOccupationにものすごく近いと思いませんか。

主体的な社会?

動物の群れってあるけど、群れと群れじゃないものの境界線って、どこでしょう?

↓ここ?

それとも、↓ここ?

多分、最初のラインが群れの境界線って思いますよね。

まとまって行動している個体の集まりがあって、その集まりとそれ以外との間で何かやり取りが生じそうなところが境界なわけです。

コミュニティと相即

人間の集まりに共通の自然発生した文化や人為的に作ったルールがあってまとまって行動しているように見える時、コミュニティと言われます。

最初の相即の図を思いっきりズームアウトすると↑このようなものが見えてきます。

大雑把に共通の行動や思考のパターンがある集まり。境界線は他の集まりや環境との相互作用があるから見えてくる。

これがコミュニティの実質。

このようにして主と他を見ていくと、細胞~個人~家族~地域といった広さや規模という広がりの軸と、物質~生物~社会・文化~存在意識という見え方の軸の2つがあることがわかります。

そしてそれぞれの主と他の境界には相即があって、個人のレベルの相即はOcuupationに似ている。

作業療法士がコミュニティや街作りに関わるといいかもしれない理由

上の図のコミュニティの境界で生じている相即。これはいわばコミュニティのOccupationみたいなものじゃないかと思うわけです。

つまりは、コミュニティの実質は、それとそれ以外との関り。

そして、コミュニティをズームアップしていくと、コミュニティの境界は見えなくなって、主体と主体の関りが実質に見えてくる。

さらにズームアップすると、主体は環境と相即によって成り立っているのが見えてくる。それはまさにOccupation。

コミュニティーの本質は共通する文化であり、文化は構成員同士の関りで作られ、それを規定しているのはそれぞれの主体としての生き方である。

これが作業療法士がコミュニティを見る時の視点。

コミュニティが自然発生する時って、まさにこれですよね。

その視点で見るからどのレベルに問題があるのかはっきりわかる。

なので、作業療法士が関われば無理なくコミュニティや街づくりができると思うわけです。

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