投稿会「老い」とリハビリテーション 2018.4
スポンサーリンク
某所で行われている桝井氏主催の投稿会です。
ブログから参加。
テーマは「老い」とリハビリテーション。
老いを感じた瞬間
僕が老いを感じた瞬間。
- 若者の話に入れない。
- 鼻毛に白髪を発見。
- 新聞が見ずらい(老眼か!!)
- 何時に寝ても5時に目が覚める。
- 徹夜をすると翌日ダウン。
- あと何年この仕事できるんだろうとふと思う。
ショックではなく、何となく通過した感じ。笑い話のレベル。
老いと死
「老い」の先には「死」がある。
よくある老年期の話を聞くと、どうやら自分の生きてきた意味を整理する時期らしい。
今の仕事、ほぼ高齢者相手だけど、「自分の生きた意味は」なんて考えてる人あまりいない気がする。
それはおそらく、
①地域性
②Dementia
の2つのせいだろうな。
地域性
ここは戦前から家内制手工業から工場制手工業へと発展した町で、地域ごとに工場を経営している家があって、その周辺に住んでいる人がそこに勤めに出ていたという歴史がある。
それを中心にしたコミュニティができていたらしい。
今も自治会ごとに多数派の名字がある。
土地が安定していると人間も安定するみたいだね。
「生きてきた意味は?」
なんて切り出そうものなら、
「難しいこと考えてないで飯でも食え」
的な人柄の方が多いです。
Dementia
仕事で関わる人の8割はDementiaという診断がついている。
いろいろ忘れて、論理的なことは考えなくなって、徐々に今、この場所での感覚がとても重要なものになってくる。
心地よさを感じていれば幸せだし、不快な感覚があれば不機嫌になる。
僕が仕事で関わる人たちは、「今が幸せ」的な人が多い。
それはケアスタッフの努力のたまものだと思うし、地縁・血縁で安定したコミュニティに生きてきた人たちというのもあるんだろうな。
スポンサーリンク
生きる意味
関わっている人の中にはごくわずかだけど、生きてきた意味を問い直している人もいる。
「何のために生きてきたんだろうね。もう死にたいよ。」
と、言われることもある。
僕は
「仕事みたいなもんです。」
と答えます。
どうせ働くなら楽しいといいけど、そうもいかないこともある。
「まったくだ」と言って笑ってたひともいたなぁ。
「老い」を考えると生きている意味に突き当たる。
とかく、人間てのは意味とか価値とかを持ちたがる。
意味とか価値とか求めるから心が不安定になるんじゃないかと思うわけです。
人間(に限らずあらゆる生命は)たまたま生まれてたまたま死んでいくわけで。
地位とか、財産とか、業績とか、人間関係とか、社会的・文化的に手に入れたものをすべて捨て去った時になにが残るか?
意味とか価値とかなんてそもそもない。
多分ね。
その上で、いろんなものを手に入れたりしながら死ぬまで楽しむわけですね。
仮に手に入れたものだから、そんなに必死になるほどのものでもないです。
自分の価値やら意味やら求めるから心が疲弊するって思いませんか?
地縁・血縁のようないのちのつながりみたいなのを感じて生きてきた人は、老いても心が安らかな気がする。
僕の住んでる地域の人は、それを素でやってるから話しているだけでこっちまで幸せな気分になります。感謝。
リハビリテーションとの関係
老いは正常なプロセスなので、障害ではない。
ただ、疾病が老いを早めることがある。
だから、一部リハビリテーションの対象。
Well-BeingってのはWell-Agingです。加齢は避けられませんから。
健康にかかわる専門職の一員としてそれにかかわる理学療法士や作業療法士は「老い」についての知識は必要です。
リハビリテーション=理学療法・作業療法
ではないのは大前提の話ね。