障害学って? ICD-10とICIDHとICF ②
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障害学は障害者差別と闘うための武器として発展してきた経緯があります。
起こりは1970年代のイギリスとアメリカ。
両方とも障害を個人に帰結させる個人モデルへの反駁ではあるものの、イギリスとアメリカの障害学は微妙な差異がありました。
●イギリス
「足の不自由なAさんが車いすで駅まで行きましたが、駅にはエレベーターがないため電車に乗れませんでした。」
これを、
①Aさんは足が不自由だから電車に乗れなかった
ととらえるのか、
②駅にエレベーターがなかったから電車に乗れなかった
ととらえるのかという問題です。
①は個人モデル、②は社会モデルと言われます。
①ととらえる人が大多数な中で②を主張したのが大きかったんですね。
ただ、これを極論すると、障害はすべて社会の責任であり、社会が変われば障害はなくなる。
つまりは、治療や医学的リハビリテーションは必要ないという結論に至ってしまいます。
ある意味、病気と障害を切り離して考えるということにもなります。
障害を持つことの個人の体験は無視されているという批判もありました。
●アメリカ
例えば、奇形、奇異な行動、おかしな歩き方、おかしなしゃべり方の人に対して、
それが全く何もない人と同じように接することができますか?
もちろんできる人はたくさんいるでしょうけど、
一瞬「えっ!?」と思ってしまう人が多いのではないでしょうか。
無意識に「異常」を感じ取ってしまい、
その感性が、そうでない多数の「正常」の人のための社会資源(構造物等)を作り上げている。
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そのような観念的障壁(=偏見)と物質的障壁(=構造物)によって障害者が排除されている
という主張がアメリカ障害学の始まりです。
物質的障壁は社会的な心理要因によって支えられているという視点なんだと思います。
人権思想の発達しているアメリカらしいですね。
1970年代のアメリカといえば、IL運動真っ盛りのころ。
アメリカではマイノリティの復権というところで、公民権運動へと発展していきました。
でも、
僕らが必要としているのは、医療の中でどのように障害をとらえるかということです。
つまりは医療モデル。
資格上、医療職ですから。
最初に述べた通り、障害学は個人モデルへの反駁として生まれています。
個人モデルでの障害をとらえると障害の原因は個人に帰結されます。
だから治療と医学的リハビリテーションが重要となります。
まさに、Physical Medicine and Rehabilitation そのものです。
そのためには、医療モデルとしての障害のとらえ方が不可欠。
医療モデル ← 個人モデル ⇔ 社会モデル
(個人モデルも含めて講義の障害学としてとらえる場合もあります。)
厳密にいうと
ICIDH=障害学ではない。
むしろ、
ICIDH<障害学。
でも、障害学って何なのかくらい知っておかなきゃ、他職の人から笑われちゃいますよ。
ICIDHで患者のこと話しているときに、
「なんで今更医学モデル持ち出すの?」
と言われた時に、相手が何を聞きたがっているかくらいはわかるようになったほうがいいかな?
前回の答えはまた次回に。