ココロのある場所と見える世界 -他人を理解できるのか?-

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「あいつはダメな奴だ」「あの人性格悪いよね」etc,etc…

いろいろ悪口、噂話はありますが。

「本人の知らないところで、本人のことを誰かに話す」

そういう行為は世間一般には「悪口」「陰口」と言われ、
「あの人誰かいなくなるとすぐ悪口言うよねー」
なんていう人が現れて、「お前もな!」という突っ込みをしたくなってみたり。
逆に「素晴らしい人だよね」なんて、いい陰口もあるけど、本質は同じですよね。

そんな陰口を聞いて、
「へえ~あの人そんな人だったんだ~」って思いますか?

見え方とココロ

「ココロは自分と世界との間にある」と言うと、「えっ!」て思いますか?
そして、世界はそこにあるものではなく、見えてくるものです。

陰口の事実

ここで起こっている事実は、

「AさんはBさんのことを「ダメな奴だ」と言った。」

ということだけです。本当にBさんがダメな奴かどうかの真偽は含まれていません。

AさんはBさんのことを「ダメな奴だ」と言う人、ということだけがわかります。
AさんにはBさんがダメな奴に「見えて」しまうんですね
そこだけわかればいいんです。

AさんはBさんのことを表現しているようで、実際は、そう思っている自分自身を表現しています。

だから陰口を聞くと、Bさんのことはわからないけど、Aさんのことは少しわかります。

そこで、「Cさんはどんな人?」「Dさんは?」ともっともっと聞いていくと、よりAさんのことがわかってきます。
Aさんが何をどう感じるか理解できたとしたら、それはAさん自身を理解したことになりますね。

何をどう感じるかって、Aさんの見方ですよね。いやむしろ、Aさんからの「見え方」と言った方がいいのかも。

自分をわかるって?

自分自身を理解するのも同じこと。
「自分は何がどう見えるのか」
を知ることです。

でも、自分自身にとってのなにかの見え方は当たり前のことだから、改めて考えても何もわからない。
だって、いつもそう見えてるんだもん。
「ほかの人にはどう見えているのか」を知ることが、自分を知ることでもあるんです。

ということは、ココロは自分の中にあるのではなく、誰かや何かとの間にありそうですね。

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気と心

日本文化には「気」という言葉があります。
「気配り」「気遣い」「気休め」「気疲れ」...
面白いことに「気」を「心」に変えても似たような言葉になります。
「心配り」「心遣い」「心休め」「心疲れ」...

「気」という言葉を使うと、自分の周りにあるもやっとした何かがどうにかなっているようなニュアンスですが、「心」という言葉になると、自分の中心にある何かがどうにかなっているようなニュアンスですね。

自分の周りにある何かは、近くにいる人の周りにある何かでもあります。

だから共有できてしまう。

「心配り」は配られた人しかわからないけど、「気配り」はその場にいる人が感じ取るでしょ?

患者の気持ちは理解できるのか?


よく、「患者の気持ちを理解しなさい」とか言われませんか?

「よくわかります」
...うそでしょ。

「わかるわけがない」
...本当に?

その人を理解するということは、その人の世界を共有することであり、その人が何を見ているのかを理解することでもあります。
そもそも、関心のあるものしか見えてきません。だからその人から見えている世界がその人自身の姿でもあるんです。

でも、その世界を理解しようとして一対一で向き合って語り合っても苦しくなるだけです。お互いに。
だからそんなことはしない方がいい。

そうでなくて、その人が見ているものを共有していけば少しずつ近づいていけます。
「昨日こんなことがあってね~、それがこうでね...」
へぇ~そうなんだぁ~

それで十分じゃないですかね。

人を理解すること、自分を理解することというのはそういうことじゃないかと思います。

ココロは自分と世界との間にあり、世界というのはそこにもともとあるのではなく、見えてくるものなんじゃないかな。
 
 
  

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