主観と客観の違い? 例を挙げると…
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「客観的になれ」
ってよく言われます。
「客観的」=よいこと
「主観的」=わるいこと
と思われていますね。
この客観ってものが何なのか考えていくと
簡単に「主観」「客観」を分けることができないことに気づきます。
「客観的であるべき」
というのはある意味、信仰みたいなものかもしれません。
科学技術と客観性
科学は客観的であるべきと言われますが...。
誰がいつどこ使っても同じ結果をもたらす「客観性」。
でも、これは、「科学」というより「技術」です。
元来、エピステーメー(episteme)は正確に知りうる知、テクネー(techne)は実践の知として区別されてきました。
科学技術として混同されるようになったのは、中世の終わり、生産がギルドから問屋制家内工業に移り、産業として成り立ち始めたことからです。
技術は誰がやっても同じ結果になるという客観性を備えています。というより、そうでなければ技術として成り立ちませんね。
では、科学はどうか?
発見とは
科学はありのままをとらえることです。
起こっていることのありのままをとらえたとき、それが「発見」です。
「何かが起こっているんだけどよくわからない」
発見というのはそれを表現すること。
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すると途端に認識できるようになる。
表現はことばであったり、数式であることもあります。
主観と客観
何かを発見して記述する。それだけではたった一人の主観です。
その主観が共有されて、より多くの人が「そうである」と思うようになる。
いわゆる「客観性」ですが、多くの人が主観的にそう思っているということなので、相互主観的あるいは間主観的inter-subjectiveとも言われます。
誰も同じように思わなければ、何を主張しても独善的な主観と思われますね。
「好き勝手言ってぇ、もっと客観的になろうよ」
なんてありがちなこと。
でもそれだと、同意する人が多ければ客観的だということになる。
客観性は多数決で決まる?
コペルニクスと名医の目
コペルニクスの地動説は、主観として排除されました。
でも、今は相互主観的に支持されています。
また、一枚のX-Pから異常を見抜く名医の目。
ほとんどの人には見えない。完全に主観です。
でも、事実を見抜くきわめて客観的な目です。
客観的とは何ぞや???
つまり、洗練された主観は極めて客観的なものになります。
それは、共同主観的trans-subjectiveというべきもの。
でもそれが客観だとは言い切れません。ほかの名医が違うものを見つけたら、そちらの方が客観的だったということ。
つまり、客観というものは存在せず、客観化のプロセスが存在するだけなんですね。
それは洗練された主観から始まることが多いんです。
その主観を洗練していくことが大切です。
だから、ことばは大切。
そのことばで何を記述しているか?
それが得られなければ共通認識には至りません。
cureとtreatmentの違いは?
なんて、言葉遊びみたいなことをやっているのも、それが理由なんですよ。