理学療法と作業療法 医学モデルと作業モデル 応用的動作と基本的動作 -作業療法の隙間-
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作業療法って、理学療法との対比で語られることが多いと思います。
最近では、医学モデルと作業モデルの対比の中で説明されることが増えてきたような気がします。
理学療法との対比において
日本での作業療法士は、理学療法士と同じ法律の中で身分が保証されています。理学療法士と作業療法士は兄弟資格のように思われているのは、そのような経緯があるからでしょうね。
そして、気づきます。
兄弟資格のように「思われている」んです。
理学療法と作業療法の隙間
日本では、作業療法の目的は、応用的動作能力と社会適応能力の回復と定義されています。
対して理学療法は基本的動作能力の回復。
この、「基本的動作」。何を言い表しているか定義を紐解いてみると、「立つ、座る、歩く」という動作のこと。
応用的動作と対比してみると、応用的動作は常に目的が伴います。何かを成し遂げるためにすることです。対して基本的動作には目的がないです。
とすると、ADLはすべて応用的動作になりますね。
応用的動作能力と社会適応能力の隙間
究極のところ、生活は応用的動作の連続と言えなくもない。
ADLだけでなく、仕事、学校生活、遊び、コミュニケーションetc…
そんな応用的動作の連続が、自身の所属する場所に不協和なく受け入れられる様式で遂行される。
つまりは社会への適応です。
それが、応用的動作能力と社会適応能力の隙間をつなぐ部分です。
応用的動作と基本的動作の隙間
そんな作業療法士から見ると、基本的動作は応用的動作を構成するパーツ。
対して、理学療法士から基本的動作を見ると、それは、運動(医学的に運動とは骨体の角度変化と定義されます)の集合体であり、各要素となっている運動が最高に協調化された状態。
運動器の治療が最終的に目指す姿。

フリーザ最終形態
「最終形態-基本的動作」ですな。
理学療法士が基本的動作を見る時は、何のためにやるのかという生活上の価値や意味は含まれなくて当然。
とある理学療法士さん
「ADL、ADLって言って、代償動作ばかりさせて二次障害出たらどうすんだ」
とある作業療法士さん
「訓練室で歩かせてばかりで、何も生活変わらないじゃないか」
よくある不協和です。
だから、「理学療法士もADL」、「作業療法士も基本的動作」ってなるんでしょうかね。
隙間の認識と隙間をつなぐもの
これは、僕が某研修会で発表した時の資料です。
僕は両資格持ってます。でも普段はどちらか一方の資格しか使いません。
というのは、あれもこれも手を出すとチームアプローチをずたずたにしてしまう危険があるから。
実際は、そんな時間がないっていうのが本音ですけど。
本当ですよ。
本気で自分の職責を果たそうとすると、ほかのことに時間をかける余裕なんてありません。それだけで精一杯です。
そんなことない?
本気で仕事してますか?
…おっといけない。
僕には2足のわらじを履き続けるけるようなキャパはありませんってことで。
この時に限っては、研修会のお題をいただいたというのもあり、理学療法も作業療法も一人でやりました。
対象は、様々な要因が重なって寝たきり状態になってしまった方。
診断上、認知症とはなっているけど、常識的な判断はでき、自分の置かれた状況も理解している。
作業科学的に記述すると、自分の身体状況の不具合で、生活動作を含め様々な目的を持った意思が完遂できず、作業的存在としての自己を失っている状態。
…となるのかな?
その時の取り組み
理学療法士として運動の治療をします。目的はまず寝返りからの起き上がり。
これがなかなか改善しない。
なので、今ある運動機能を組み合わせ、基本的動作を作っていきます。
もし運動が改善する余地があれば、治療します。
各関節の運動に治療可能性が残されていないか調べながら、治療し、ほんの少しの改善を最大限有効に使えるように、協調化させて基本的動作を組み立てます。
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同時進行で理学療法士は起き上がり→立ち上がりへと進めていきます。
作業療法士としては、トイレに行く、食堂に行く、その他いろいろな場面を想定しつつ、居室内のベッドで基本的動作の使い方を考えていきます。
そんなの簡単と思うことなかれ。
トイレは居室内にあるので、車いすを使っていると間に合わない可能性がある。伝い歩きで行ったほうが効率がいい。が、転倒のリスクと天秤にかけなければいけない。
それを聞いた理学療法士は、早急に立ち上がりと伝い歩きの青写真を描かなければならないと気づきます。
伝い歩きができる可能性は五分五分と理学療法士は判断。
一方作業療法士は、食堂に行く際は車いすの使用で転倒リスクを回避すべきであり、トイレの際は、五分の可能性に備えて、伝い歩きで遂行するパターンも押さえておこうと判断します。
理学療法士さんだと、「ふーん」で終わるでしょうけど、足元に車いすがあるかないかで起き上がりのパターンを変えなければなりません。
特にこの人の場合、ROMが極端に狭いので足元に車いすがあると邪魔になる。加えて、起き上がりの成功率も50%程度。
繰り返しているうちに疲労してしまい、その結果、失禁ということも予想される。
作業療法士は実際の起き上がり場面で必要なROMと筋力を理学療法士に伝え、同時に、居室環境で使えるものを使い、トイレに行くための一連の動作として、寝返りからの起き上がり動作を組み立てていきます。
成功すれば、身体的不具合で行えなかった作業が行えるようになり、作業的存在としての自己を取り戻せる。老健入所生活という社会への適応であり、一言でいえばトイレ動作の自立です。
これ一人でやるのしんどいよ~
分担できるんだから、2人でやりゃいいじゃん。
中途半端にやって一人で60点取るより、2人で協力して100点とりゃいいでしょ。
というところが、応用的動作と基本的動作の隙間であり、隙間をつなぐものです。
そして隙間を放っておけば、そこからこぼれ落ちるのは患者です。
医学モデルと作業モデルの隙間
作業療法が作業モデルとの絡みで語られることが増えたような気がします。
日本では同じ法律で理学療法と作業療法が定義され、同じ領域で働くことが多いので兄弟資格として対比されることが多かったのだと思いますが、歴史をさかのぼると、OTとPTは同居している他人兄弟であることに気づきます。
PhysicalTherapyは、純粋にPhysicalMedicineの治療職として発展してきました。
対してOccupationalTherapyの歴史を紐解くと、抑圧された病者の開放、人間的な生活、当然そこに含まれる余暇の充実、それの医学的意義というところがキーワードになります。
環境とのかかわりが人を人たらしめるものであるという信念がそこにあります。
ワィゼッカーという人は「相即」という言葉で持論を展開し、木村敏は「あいだ」という言葉で表現しています。
それは切り口は違うもののOcuupationの一面を表しているといえます。
現象学では「意識の志向性」という言葉が使われ、考えることですら対象なくては存在ないと言っています。
「感覚なくして運動なし」
それも同じかもしれません。
環境とのかかわり、それは行為を通して具現化される。応用的動作がその行為を組み立てています。
つまり、Occupationの回復は社会適応ともいえます。
Occupationをどのように回復するのか?
OccupationalTherapistはActivityを駆使して医学的に治療し、ActivityにOccupationとしての意味をもたせつつ、作業的存在としての自己を回復させ、社会適応をもたらす。
そこが、医学モデルと作業モデルの隙間であり、隙間をつなぐものと思っています。
他人兄弟の所以
PhysicalTherapyとOccupationalTherapyはヒポクラテスが起源といわれますが、たどってきた道があまりにも違います。
PhysicalMedicineの創成期にOccupationalTherapyがPhysicalMedicineの中でも展開されるようになったと理解するほうが正しいです。
再び法律解釈
日本の法律では、作業療法士に求められているのは、Occupational Therapy in Physical Medicine and RehabilitaionまたはOccupational Therapy in Psychiatric Medicine and Rehabilitaionです。
医学モデルとしての作業療法を前面に出しつつ、同時に成り立つ作業モデルとしての作業療法の効果も駆使していくというのが、真の作業療法士なんでしょうね。